昭和56年8月21日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第八十九節 「此方の道は傘一本で開くことができる。」
信心しておかげを受けると申しますけれども、御願いをする、おかげを受けるという事と、この神様のお計らいの中に生きるという事。神様のお計らいの中に生きるという事がこんなにも間違いない、こんなにも尊いものであると分かるときに頂くのが本当の意味においての傘一本だと思いますね。人間の計らいというものは本当に小さいしかも浅いものでしかありませんけれども、神様のお計らいというものは、もう限りがないいうならばお計らいの中にあるのですから、限りない喜びがそこに頂ける。いわゆるいつまでも尽きぬおかげというのはそういう喜びが分かり感じられるようになり、その感じられる喜びにまた限りない喜びが伴うてくるのです。
昨日、お風呂に入らせて、ここを四時半に下がらせて頂いてすぐお風呂を頂きます。まあ勿体無いことですけれども、私共ほんの夫婦が入るだけでありますけれども、お風呂の中で、家内と申したことですが、このお家ができる時にこんな大きな風呂を作って、とにかく私が檜の、風呂に入ると言うことが私の若いときからの一つの夢でしたから、それを皆が聞いておるものですから、もう、総檜張りで、そう檜作りの大きなお風呂が出来ました。二人しか入らないこんな大きなお風呂を作ってと言うておりましたけれども、昨日お風呂に入って二人で話したことですけれども、神様のお計らいには間違いが無いなあと。とにかく大きなお風呂ですから長くなって丁度、体が浸かるくらいにするとその風呂の少しばかりお湯を入れれば良いわけです。なら、長くなればこうひずめれるというのですから、それに一杯なるほどお湯を入れるなら大変ですけれども、そげな事しよったらおぼれるくらいな深い風呂です。ですかあ私は檜の香りというのがすきなんですから、そのお湯を入れない、上のほうだけはいつもだから新しい檜で、いつもお風呂入ったで檜の香りというかね、湯気と檜の香りの何ともいえん、そんなにおいです。私は入るたんびに楽しませて頂くわけですけれども。
こんなに太く大きく作って、中で、小さくしましょうかという人もあったけれども、せっかく出来てきたものをそんなにするのもというので、一切使わせて頂いて、感じることは神様のいうならば、限りないお計らいの中にあっておったなあと。もう御大祭たんびに感じるのですけれも、こちらの信徒会館のお広前で御大祭を仕える。そこに二十名からの楽人さん達が、楽室がない。そこで向かって右側のほうへ、畳をこう作って、少し高くして取り外しのできるようにまあ楽人さんたちの御用ができるようにさせて頂いて、誰が言うたのか、昨日も家内と二人で誰が思いついたのか知らないけれども、二階の放送室の横が広々とあそこには合楽には大変高価な美術品やらあるという事を竹中が聞いておりましてね、そういう、その、(?)作るはずだったと竹中はそういう計画の元に作ったのです。だから絨毯なんかでも特別上等な絨毯が引いてあって、あの、そこへ楽人さん達が二十名ずつずっと入れるようになった。あちらから楽を鳴らす。いわゆる、御本部も今そうなっておりますけれども、そういう事は誰も考えた事が無かった。今あそこが楽室として使われておる。どんなに考えても神様の計らいちゃ深いのに驚くねと言うて、家内と二人、お風呂の中でお風呂の中で話しよったら、風呂の中で、カチッと御勇みがありました。
ね。そういう例えば深い広い神様のお計らいというものを、いつも感じておれれる。そこに例えば自分の思い通りに例えなっていないとしても神様のお計らいに間違いがないと信じれれるから、そこを合掌して受けて行けていけれるわけであります。ね。だから神様の深いそういうお計らいの中に日々があるという事ですから、その喜びというものを感じるという事はもう本当に、勿体無い事だ勿体無いことだと。昨日私の栄四郎の嫁の兄弟が大阪から親子四人で見えております。で、今日帰られるというので、昨日ぶどう狩りに栄四郎が案内しておったようで、丁度ここへ出てきておりましたら帰ってまいりました。大変子供達、子供で喜んで帰って、そして、(?)お湿りがありだしました。はあ、おかげ頂いたなあ、これはいうならばいつもの事。そういう神様のお計らいの中に、私がぶどう狩りにいけとか、何時から行けとか言うた事でもないけれども、神様の大きな働きのお引き回しを頂いて、お客さんこちらから行った一同のものが楽しませてもらい喜ばせて頂いたらここでは、しのつく、雨でございました。ね。もうそういう一時が万事に神乍らなところ、神乍らなおかげが神様のお計らいの中にあっておる日々であり、いや刻々であるという事が心に身に感じれれるようになった時に頂けれるのが一本の傘です。
此の方の道は傘一本で開ける道。いつもこの神様を頂いておる、いつもこの傘を持っておる。雲ってきたからというて慌てんでよい。ね。照るからというて熱い思いをせんで済む。降ってきたからというて濡れんですむおかげが頂けれるわけです。ね。そこを私は傘一本で開ける道だという事を教えられたのだと思うのです。皆さんが御願いをするおかげを頂きましたというおかげもあり難いけれども、いつもがね、神様の深いね、しかも綿密なとても計画してからでも、思いもつかない働きというものがいつの場合でもあっておるのだと。ね。今お話しました、楽室のところに作っておりました、ちょっと高めに畳を布くようなところが出来ておる。ならそれが余ったけんこれは、何ならんじゃったというごたる感じですけれども、今まるしょうが、ですか、ああいう、稽古を三階の稽古場に持って行っておりますから、それもそこにあつらえたもののように生き生きとして使われております。合楽の場合はどこをみてもそうなんです。はあここは大工が失敗したな、ここはやりそこなうておるなという事がかえってそれがおかげであるという事に、ね、もう絶対そんな間違いをする事ない設計士がミスがあった。客殿に入るここの応接間の前がそうです。あすこに、とうの引いてある遊び場があります。あそこはもう直接ぶっつけ客殿に入るように設計したつもりでちょこっとばっかりずれておった。だからおあそこにあれだけの遊びばが出来た。出来たから何ともいえんあそこに雰囲気が出来たわけです。
これはね、ですからお互い信心をさせてもらうのですからそういう神様の深い深い間違いの無いお計らいの中に日々お生かしのおかげを頂いておるんだという思いをですいうならば、一家中の者が感じる。そこに生まれてくるあり難い事だなああり難いことだなあというその心。その心が次のまたおかげを生んでいくというのですから、金光様の信心すりゃどげなおかげでん頂けれるばいというところから、もう御願いをせんでもとにかく神様のお計らいの中に生きる生活をするという事が本当の信心生活なんだ。そこに信心の薄いものでも無い者でもいやなる程、おかげだなあおかげだなあそんなに腑がよかったなんていうようなことはいつもかつもあるもんじゃない。そういう例えば素晴らしいタイミングというものというものはいつも生まれるものじゃないけれども、信心させて頂きよるとそういう素晴らしい、普通で言うならあちらが腑が良いと思われるように、素晴らしいまたはタイミングが生まれてくる。
昨日丁度研修の前でございましたが、鳥栖のほうから中島という熱心な婦人が参ってきます。御祈念をさせて頂いておりましたら、繰り返して、繰り返し頂く事が、山田吾一、山田吾一と頂くのだそうです。山田吾一ちという俳優がありますよね。山の田、ごは吾という字が書いてある。どういう事だ、皆さんならすぐ分かるだろうと思う。もう合楽の信心はこれに極まったんです。極まっているんです。山という事は修行だとこういう。その修行の第一は何というても神様の働きをそのものを大切に頂くという事なんです。成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にする。黙っていうならその事を頂いて行く収めて行くと言う生き方。そういう山という事は修行。ね。そういう修行がです、ね、今栄四郎の部屋に掛かっております額ですけれども、養素拝山とあります。拝山という人が書いた、大体絵描きさんですけれども、まあ見事な字を書いてあるです。それを頂いた時に頂いたご理解。養素、養う元。心を養う元、それは、拝山。山を拝む以外にない。山を拝んでという生き方。いわゆる黙って収めるという生き方。もうこれはいやが上にも心が豊かに肥えて行く心が養われていくのです。それが大きいであれば大きゅう広がっていく豊かになっていくのです。ね。いわゆる山田である。吾一というのは、吾一つと書いてある。もう合楽の信心は山田吾一で行く以外にないのだと。ね。それを山として、またおかげの受け物を受けるという山田として合掌して受けていく、吾この一つとして、キチッ、極まった、決めた。心の中に。この生き方で行くところにです、いうならいよいよ、心が豊かに大きくなり、間違いのない神様が求めてくださっておる修行をさせて頂く事になりますから、そこに神乍な働きが起こってくるのです。いや、実はいつも神乍な働きがあるのですけれども、自分の心でそれをキャッチしきらんのです。受け止めきらんのです。その神乍な働きを受け止める心がね、山田吾一で行かなければ出来ない。先日、十三日会に千恵子先生が発表しておったように結局は、合楽の信心は全てのことにあり難いという答えを出していく以外にない。断言できるだけにです私共が日々感じて行けれる体験を積んでいかなきゃならんのです。ね。山田吾一で行かなきゃならん。そこにですそれこそ神様の思いというものが氏子幸せにせずにはおかんという働きを実感する事ができるのです。確かにそうだなあと。人間の知恵力では及ばないところに神様の働きがあって、ね、神様の深い深い御深慮の中に、神様のお計らいの中に生きる生き方を私は合楽の中にいよいよ求めていかなければいけないと思うですね。
どうぞ